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きりえエッセー
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わたしの場合 (2)
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| 十五年ほど前、村井正誠氏の個展を観て大胆なフォルムやモダーンな色使い、抑制と省略、心が形と色と一体となった作品に強く惹かれました。単純な塊の配置がまぎれもなく京都の大覚寺であり、灰色の画面から苔寺の庭の緑が甦りました。触発されて出来たのが「さっぽろ・夏」、「冬」の二点で、四年半かかりました。 具象をつきつめて抽象に到るという過程は、私たちの年代以前ではもっとも普通のことだったのでしょうが、近年は美術を始めていきなり抽象の仕事をするという若い人が非常に多いようです。私もずっと以前、あるホテルでの室内楽のディナーショウが楽しくて、その雰囲気と音の広がりを画面に表現したくて試みたことがあります。 工夫のない芸術は面白くない、しかし工夫に頼りすぎると感動が伝わってこないことにも気づかされました。 具象と抽象とは、一体どこで一線を画されるのでしょうか。具象画がものの形象を誠実に写しとることだけと言いきれず、画家の感情の表出だとしたら、そして現代の抽象が初めに観念があって、それをどれだけ画面の中で展開できるかということになれば、ひとりの作家がどれだけ自身の心象世界を画面の上に実現することができるか …それこそが問題なのであって、いわゆる具象、抽象といった概念など非常に曖昧なものに見えてきます。 もし、いわゆる具象と抽象との谷間に、そのどちらでもないという、まるで奇跡のような場所があるとしたら、そんな風景を描きたい。生意気ですが、表層の向こうにある何かを描き出せたらと思うのです。(つづく) |
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わたしの場合 (1) |
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いつのまにか24年経っていました。ひょんなことがキッカケでカッターを握り、見よう見真似できりえを始めて現在に至っています。 最初は祭対象に選んでいましたが、第4回日本きりえ美術展のときの吉井忠氏の講演が深く胸に響いて方向を変えました。 それから随分回り道をしましたけれど、最近は直感を信じ、何をどう描くかまず自分自身との問答があります。次にこういう手段をとりたい、こういう風景にしたい、鳥にしたい、魚にしたいと、自分の思いを託すために説明的な要素を削って行きます。捨て去って呼応する新たな構築、そして現場で感じたことに向かっていくのです。 頭の中で作り上げた風景などが多く、目の前にある対象物を再現するというのではなくて、対象物を媒介にして、いろいろな記憶、思い出を持ってきます。そしてそれを作ったり壊したり、泥んこになって繰り返して出来上がっていきます。わたしの場合、具体物に対して信頼を持っていないというか、記憶や思い出を持ってくるために、それらを喚起する媒体として具体的なものが必要になります。 出来上がるかどうかわからない絵、ついにはまとまらないままにただただ格闘し、またしまわれる数の多いこと。絵がわたしの行為や記憶の答えとしてあるのではなく、あくまでも行為や記憶の過程であると読み取って貰えるようになりたいと思っています。(つづく) |
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「ピロシキ」
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日露合作のピロシキの味が懐かしい……、というとなにやらものものしいが、母と旧ソ連軍将校夫人手作りのピロシキのことである。 祖母をはじめ私達家族8人は樺太、豊原市(現サハリン、ユージノサハリンクス)で終戦を迎えた。父は樺太庁の役人だった。 終戦まぎわの旧ソ連の参戦、8月22日の空襲で無抵抗な街はめらめらと燃えた。翌日、赤と白の旗が埋め尽くす街に、無数とも思える戦車を先頭に旧ソ連軍が進駐した。轟々たる戦車の音が今も耳に残る。 混乱が落ち着くにつれて、まず将校たちが母国から家族を呼び寄せはじめた。彼らの住居にまっさきに高等官官舎が充てられて、私達は僅かな時間内に立ち退きを命ぜられ、知人を頼って市中を転々とした。 三度目に落ち着いた場末の一軒家で、密航した家主の安否を気遣いながら過ごしていた秋のある日、突然訪れたのが、アンドレヤスキー中尉だった。またもや家の接収である。 もう引っ越すアテもない両親は必死で事情を話したらしい。通訳の言葉に耳を傾ける将校の蒼い瞳に同情の色が浮かび、結局彼らは私達家族と同居ということに決まった。 廊下を隔てた離れに住まう彼の家族は妻サーシャと一人娘リーヤ、リーヤは11歳、わたしより少し歳上の美しい少女だった。なにひとつ相手の言葉を理解できないままに同居生活が始まった。 母とサーシャは、ひとつのキッチンを使うことになって、互いの献立に興味津々であったに違いない。身振りで手振りでレシピを交換したその結果のピロシキである。コンビーフと御飯を炒めた物をメリケン粉を練った皮でまるく包んで油で揚げる…、白い粉だらけの台所…。 あれから40年も経ったが、街のレストランであのピロシキに出会ったことはまだない。 東京・銀座 洋菓子舗「ウェスト」発行「風の詩」2376週号より |
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出会いがしらの恋 “なぜ私はいま「きりえ」をやっているのかしら?” クールなくせにときどき妙に温かくて、苦労することが分かっているのに離れられない、まるで遊び人の恋人のような「きりえ」と出会ってしまったのはいつのことであったか…。1974年、私は名古屋で民話サークルの結成に関わり、なりゆきで代表を引き受けた。会員のほとんどは主婦であった。それから月2回の例会、が、後が続かない。専門的な知識など誰も望んでいないし、受け身の学習はつまらないものだ。当時、未来社から“日本の民話シリーズ”として各地の民話集が出ていたが「尾張」は欠落していた。刊行の予定もないらしい 。 「ほんとうに名古屋に民話がないのか探してみたい!」模索していた三、四十代の主婦のパワーは全開し、水筒、弁当を手に市中に散った。やってみるものである。50を超える話が集まり、翌年110頁の小冊子に まとまった。マスコミは好意的に報じてくれ、TV局は“話に絵がほしい”という。会員の一人が“きりえにしたら話のイメージが膨らむのでは ”と提案した。唐突な「きりえ」との出会い…。見よう見まねで夢中で取り組んだ。突然現れた恋人は日常から自由を奪い、私は経験のない苦労を背負い込んだ。あれから17年、ときめくままにおちていった出会いがしらの恋に別れの予感はまだない。 ('93.10記) |